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ご注意

 用語の正確さを期するなら、強制されずに自らの意志で行うものは「腹切り」、刑罰として強制されるものは「切腹」、そして、軍関係者が第二次世界大戦前後まで行ったものは「割腹」 と表記されるのが一般的なのでしょうけれども、ここではあまり、厳密に用いることはいたしません。なぜなら、それぞれの言葉は、その歴史的な背景とともに、それ独自の語感を備えて いるからです。たとえば、「腹切り」と表記した場合の豊かな情感、「切腹」と書いた時の緊張感、そして、「割腹」という言葉のもつ勇ましさ.........、わたしはそれも、大切にしてあ げたいと 思うのです。

 それをご承知の上で、以下をお読み下さい。

 この世に、性的な悦楽を伴わない切腹があるなんて、わたしには信じられないのです。

 切腹とは、本来、その行為の果てに必然的に訪れるであろう「死」の恐怖を克服し、敢えてそれを自らの身体に執り行うことによって、一度切りの、最後の、そしてきっとこの世界で 一番激しいであろうと願わないではいられない、性的な絶頂を手にするための行為なのですから。

 であれば、女であれ、男の方であれ、いよいよ念願の切腹の座について、背筋を伸ばして胸を張り、その愛しいお腹を大きく寛げて、冷たく光る切腹刀を自らの下腹に凝らした時には、 性的な頂点の一歩手前まで昂揚していならないのですし、その昂揚がなかったならば、見事に切腹に果てることなど、到底望むことはできないのではないでしょうか。

 つまり、「死」の恐怖を凌ぐものは、やはり「生」の歓び以外にはありえないのですし、その「生」の歓びの最もたるものこそが、「性」の悦びであることなど、ここで改めて申し上げるまでも ないことでしょう。

 もちろん、刑罰として強制された「切腹」の場合には、そうでないものもあったことでしょう。そのような人達の最期を考えると、やはり胸が痛みます。でも逆に、「切腹」を申し付けられたい ばかりに罪を犯した人たちも多かったのでは、とさえ思うのです。残念ながら、自らの内部の性的な衝動だけでは、本当に切腹を決行するには不十分で、それ以外に、自らを切腹へと 半ば強制的に追い込むような、外部の状況を必要とする場合が多いからです。

 そのように、いかにして自らの内部と外部とに、自分が切腹せざるを得ないような状況を構築するか───それこそが、現代において切腹を志す私たちの一番大きな課題であり、それを 準備することができずに、徒に年を経て病を得たり、あるいは事故によって、念願を果たさないままに命を失う方々の、なんて多かったことでしょうか。

 内的な状況は、その方の志の強さによってある程度コントロールすることが可能です。日々、自らの切腹自決への意志を確かめつつ生きることさえできれば、遠からず自ずとその意志は 高められ、純粋なものとなり、 いずれは自らを、ただ切腹のみを想って生き、切腹に果てる定めにある、と確信することができることでしょう。

 外的な状況を築くには、でも、その方の心掛けだけでは充分でありません。現代社会においては、切腹が許されるような状況は、皆無に等しいからです。例えば、今から10年以上前に 切腹を決意なさった方ならば、 遠くない将来に訪れることが確かだった当時の天皇陛下への崩御への殉死を想定し、その殉死を周囲に公言して、日頃より準備を積み重ねつつ、その 日を待つことも可能であったことでしょう。 けれども、そのような、半ば公的な、脆弱でありながらも一応の根拠を備えていた機会はもう失われ、この社会には、もはや、切腹という行為が介在する余地はないかのようにも思えます。

 ですから、現代においては、ただ自らの切腹への想いの強さにすがって腹を切ることになると思うのですが、でもその切腹は、そのとこによって、より純粋な行為となることでしょうし、ま た、一層強い切腹への意志がなければならないという意味で、 わたしたちをさらに魅了せずにはおかないのです。

 いつの日か、長い月日をかけて昂揚させてきた自らの切腹への願いを一層研ぎ澄まし、勇気を出して、真実の切腹の席に着くとき───もはやすべての逡巡と、恥じらいとを脱ぎ捨て て、 心の導くままに切腹への激情へと身を委ねて、あの澄み切った恍惚感のなかで、何も考えずにお腹を切ってしまえたら───そして、身体に愛撫を加えることなく、刀をお腹に加え ることだけで、念願のお腹での絶頂を得られたら───そう思うと、 その日が一日でも早く来ることを、願わざるを得ないのです。

それが、今の世界で切腹に生き、切腹に果てることを夢見る、わたしなのです。