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 第二章 「妹の手記 その一」

 
 
 父が破産し、わたしが東京の家を出て、母方の祖母が遺してくれた片田舎の家に暮らし始めた日から、半年が過ぎます。
 
 母は、わたしが物心着く頃にはもう亡くなっていて、それでも、東京で少し大きな商社を経営する頼もしい父と二つ上の姉、それから優しいお手伝いさんと幸せに暮らしていたのですが、日本中を覆った不況の波をかぶったことで、姉と二人で逃げるようにこの地に移ったのは、姉が二二、わたしが二十歳の七月の上旬、大学が夏休みに入ってすぐ、夏の気配が漂い始めた頃のことでした。
 
 姉は都内の大学の国文科の四回生、来春からは教授に乞われて大学院に進む予定で、わたしは同じ大学の英文科の二回生でした。父に似て小柄で丸顔、白石*帆さんを少し華奢にしたようなお転婆のわたしなのに、一方で姉は、長身ですらりとした美人で、大学の中ではアイドルに近いような存在でした。やっぱりうらやましかったのは確かですし、姉目当てに妹のわたしに近寄ってくる男子学生にもうんざりしてはいましたが、母の亡き後、母親代わりに可愛がってくれて、その恵まれた容姿にも関わらず、地味で控えめな性格の姉を、わたしは本当に心から慕っていたのでした。
 
 突然の破産、という逆境にあっても、その姉は少しもめげた様子を見せず、ついつい愚痴を言っては泣いてしまうわたしを優しく叱咤しながら引っ越しの手配をすませ、ただ一つ残った子会社の建て直しに関西に独りで暮らすことになった父を送り出し、長年仕えてくれていたお手伝いさんのことも然るべく手配してあげた上で、わたしの手を引くようにして東京駅からの新幹線に乗り込んだのでした。そして、それまでとはうってかわった貧しい暮らしの中でも、姉は気丈に、その美しい首を気高くもたげ、わたしを護ってくれていたのでした。
 

 

 「うーん、困っちゃうわね〜。」と、だだっ広い田舎の旧家の奥座敷で、その姉の由紀恵が、座敷のテーブルで電卓をはじきながら、その言葉とは裏腹ににっこりと微笑んでいます。卵形の頭部に秀でた額、夢見るような涼しい目元、そして優しい曲線を描いた口元の白い歯が印象的な姉は、黙っていると神秘的な印象の大人びた女性なのですけれど、ほんとは茶目っ気のある愉快な人で、父や親戚、それに祖母から、亡くなった母にそっくりだと聞いたことがあります。こうして微笑むと、目尻が少し下がるところが可愛くて、でも、わたしの知る限りは、まだ男の人とおつきあいしたこともないようでした。

 この地に越してくる直前まで、ほとんど一人で家族全員の世話でてんてこ舞いだった姉は、それだけでもうくたくたに疲れていても当然なのに、この家に移ってからは、ますますエネルギーに満ちた感じで輝いているのは不思議でした。今日だって、わたしが目を覚ました時にはもう、姉はいつものようにジョギングをすませ、朝餉の支度を終えていてくれたのです。 

 まだ混乱から立ち直れずに、そんなことを考えながらぼんやりと姉の顔を見ていたわたしに、その姉は、「麗ちゃん、あんただけでも秋から大学に戻る? 仕送りなんてできないけど、アルバイトして奨学金をもらったら、何とかなるかもよ。」と言うのです。
 
 「でも、東京にいることが金融会社の怖い人に知られたらやだな。それに、わたしあんまり勉強したいとも思わないし−−−戻るんだったらやっぱり姉さんよ。」
 「うーん、でもさ……。大学院に残って研究者になるのって、お金すっごくかかるのよ。それに、研究の時間が大切だからバイトなんてできないし。だから、姉さんが大学に残るのはちょっと無理かな。もう、学位の単位は足りているから卒業はできるし。だったら麗ちゃんが大学を出ておいた方がいい、って思ったのよ。」
 
 というような会話がありましたが、結局、少なくとも夏休みが終わるまではこちらに居て、その間に今後のことをゆっくりと考えよう、ということになりました。大学の休みはほとんど九月末までありますし、それに、いざとなったらこの家を売り、東京に戻る……ということも、わたしたちの頭にはあったのです。いずれにしても、東京での暮らしに慣れたわたしたちには、この田舎町に長居をするつもりはさらさらなかったのでした。
 
 でも、この地方も過疎の波に洗われていて、買い手なんていないだろうことは、隣町の駅前の小さな不動産屋を訪ねるとすぐに思い知らされてしまいます。田舎ということでアルバイトもできず、よい手だてが思い浮かばないままあっという間に数週間が過ぎて、その頃にはもうわたしたちは、手詰まりと言ってもよい心理状態にあったのでした。