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第三章 「松の日記 その二」

 
十一月七日 晴
 午後建具屋より新しき姿見二台。座敷に据え、三台の姿見にて大きな三面鏡を作る。下帯姿でその前に座る。角度変え、初めて吾が腹を真横より見る。絶食のため腹薄く、厚さ六寸にも満たず。二寸入れなば切っ先背骨に達するようにも思わる。続きて恢復後初めて腹を手習う。胸に肋骨大きく浮かぶ様痛々しく、太腿細く、努めて栄養を摂らねばと決意す。体力未だ戻らず、一刻程に止めて休む。
 
十一月十二日 曇
 昨日分家より封書届く。喪が明ける来年夏には早々に見合いせよと大伯父が記すも、その頃既に吾はこの世に居らず。正月は分家にて過ごされよ、とも誘われるが、初詣の方々への応対ありとして断りの返書を認める。あまり疎遠にして疑われるも煩わしきことから、来週分家へ赴き、数日滞在することを書き加えて午後投函す。
 
十一月十八日 晴
 昼より車夫を雇いて分家へ向かう。大伯父上機嫌にて酒食を振る舞われる。一族みな健勝の様子。大伯父尋ねるには遺品の品の整理終えしや、と。秋に病を得て寝込み、幸い恢復すれども未だ整理の時間を持てず、と答う。大伯父問わず語りに、彼の祖母から、二人の女児しかなさぬ代には禍事ありと聞きおり松の身に変わりなきやと案じておりしが、今日姿を見て安心した、と。松は独り子故ご心配なくと笑うと、大伯父顔色無くして黙す。慌てて、来年の見合い何卒宜しくと乞うて場を納めるも、少々不可解なり。
 
十一月二十二日 曇
 帰宅し、大伯父の言葉を確かめんと隣家を訪れ、その妻と茶を喫す。それとなく聞き出すには、松は二子の長女にて、妹は産後日を経ずして亡くなると。
 
十一月二十四日 晴
 新嘗祭。父亡き後、祭祀はすべて一宮の禰宜が代行してあり、本年も滞りなく済む。巫女として補助す。日露の開戦必至、と新聞が伝える中、この地にても兵に徴られる氏子多く、その親族が三々五々息子あるいは夫の無事を祈りに来たる。
 以前にも感じしことであるが、祭に立ち会い氏子衆の祈る姿を目にせし時、松が腹に勃然と切腹へと向けた「気」が高まるは何故か。思えば初めて腹の夢を見たは、十一の春、父の手伝いとして拝殿に上がりし晩のことなり。時は明治二十七年、日清の戦役の最中の戦勝祈願の折のことにて、全町内の氏子衆来たりおり。その後巫女として勤むる度に、腹への想い吾が腹中に痼りの如く育ち来ぬ。今日も拝殿にて、腹への想いに独り息荒げおり。
 夕刻にいたりて禰宜を駅まで送り、早々に帰宅。家伝をめくりて今まで不可解だったくだりを読み、ようようにして得心す。
 室町の千代女の手記に曰く、「千代が腹は民草の祈念の祭器也。幼き頃より腹志すはただその祭器たる徴に過ぎず」と。また、別のくだりで曰く、「世は千代が腹を求め、千代は民草の祈念を糧に本願を成就す」とも。腹切る女への秘伝として、ただ、「民草の気こそ求めよ」とあるは、この意味か。
 松が腹は、松独りの腹にはあらず。ここにようやく大義を得る。やはり大いに安堵し、誇らしさに武者震い止め処なく。
 
十二月一日 雪
 賀状を認む時期なれど、忌中にてそれは免る。その旨数通知人に書き送る。歳暮や年始も遠慮する旨書き添える。年末年始の祭祀も、父亡くなりし時と同様忌中にて行わぬことを氏子総代に伝える。初詣の人多数来る事には変わりなく、護符なども売らねばならぬ。そろそろ護符などの準備にかからねばと思えど、気が乗らず煩わしきが、氏子衆の「気」を集むる良き機会なればと、気を取り直して準備を始む。
 
十二月二日 曇
 護符は巫女の装束にて作るものなれば、今朝沐浴した後にその姿にて紙を切り、版を押す。五百枚作らねばならぬ所、夕刻までに百五十枚のみ仕上がる。思いつきその姿で腹を手習うが、巫女の朱袴は女袴故、座して後袴押し下げると膝上にだらしなく広がり、甚だ具合悪し。切腹の衣装はやはり男姿でなければと想う。