散らし書きへ。

一回

 

生殖

「祭」

切腹

 

 

 最初の切腹は、歴史が記される以前、巫女としての資質を備えた女性が、豊饒を願う人々の意識を身体に受け止めて、その想いの依り代(よりしろ)となった時、大きな悦びのうちに行われたもの−−−と思うようになりました。そのような状況には、人の精神と肉体とを、切腹という行為に向けて昂揚させてゆく何かがある−−−むしろ、切腹とは本来、そのような場面においてのみ行われたものであり、後世のそれはヴァリエィションに過ぎない、と感じたりしています。

 自らが属する共同体の人たちの集団的な「気」を、自らの臍下丹田に集めること−−−それを大切に慈しみ、熱く烈しく燃え上がらせること−−−そして、それが産み月を迎えたのを知ったとき、彼女は、自らが欲するところに従って、ほとんど本能的に、その気によって満たされた腹を、思い切り深く割いたことでしょう。そしてその時、巫女が得たものは、苦痛などではなく、何か異様に快い感覚であったのでは……と、思わないではいられません。

 「出産こそは最大のエクスタシー」と、経験した多くの女の人たちは語ります。自らの胎内に播かれた種を大きく育て、現世に産み出すことは、女性にとっては大きな精神的、身体的な悦びの行為だからです。それが約束された悦楽であればこそ、今日においても、たとえ出産することで母胎が危険にさらされるようなことがわかっていた場合でも、ほとんどの女性が敢えてその危険をおかすのでしょう−−−ですから、切腹とは本来、自殺の手段ではなく、供犠の儀式でもなく、むしろ、生殖の追体験/シミュレィションとしての、悦びに満ちた「祭」であったのではないでしょうか?

 それがそのような、生き生きとした生殖の「祭」であったとしたら−−−眼前で、その人たちすべての「気」を注ぎ込まれた巫女が、大きな「命」の宿ったお腹を誇示し、そして、自らの手でその腹を割き、その人たちの「子」をとり出して見せたとき。人々の願いに豊饒の象徴としての内臓を添え、精神的/身体的な爆発するようなエクスタシーの波動に乗せて、人智を越えた存在へと届けることができたとき−−−そこに立ち会った女の人も、男の人も、自らの生殖へ向けた欲望を烈しく掻き立てられたのではないでしょうか……? 今日に至るまで、切腹が性の欲望の対象となってきた理由の一つは、そこにあるのかも知れません。

 その後切腹は、その時代や地域によって異なった、様々なイメージを身にまとうことになります。それにつれて、色々な意味や機能を帯びた切腹が行われ、そして今、それは消滅しようとしています。そのような時代であればこそ、最初の切腹の意味を考え、そこに立ち戻ることも必要なのではないでしょうか。

 こんにちは、利香です。今年はまだ風邪をひいていません。去年のスケジュール表を見ていたら、2月から3月にかけて何度も熱や咳で休みをとっていたのに。でもそれは、薄着で騒いでいたからではありません(笑)。昔から気管支が弱くて、乾燥する時期は辛かったんです。もしかしたら去年、大きな川が流れる街に引っ越したからでしょうか? それとも、薄倖の美少女(爆)の時代が遠くなっちゃっただけなのでしょうか(泣)? (2004年02月29日)